夕方の空、雲と光の動きがとてもドラマチックで息を飲む美しさだった。
私が空の様子に気付いたのは、駅を出たとき。
いつもと明るさが違うように感じながら外に出ると、陸橋でスマホを空に向けている人がたくさんいたので、同じく空を見上げたのだ。
肉眼で見た方が色ももっと鮮やかで、ただただ凄い・・とうめくしか無い感じだったのだけれど、私も「残しておきたい・誰かに見せたい」思いで必死でカメラを向けていた。
そんな私たちの様子を見て、空に気付く人がまたひとり、ふたり・・・と増えた。
隣の人と「凄いですね〜」と話したり、近くを通る老夫婦が「ほうほう」とニコニコしていたり、そこにいる人たちみんなが何だか幸せな気持ちを共有したような、嬉しい時間だった。
(その後SNSを見たら、facebookやtwitterのTLにもたくさん空の写真が並んでいて、「ああ、みんなも見てたんだなぁ」とニヤニヤした。)
景色を愛でる時にスマホカメラを向ける姿って、なんだか無粋な感じでかっこ悪いんだけれど(と思いつつやっちゃうワタシ)、その姿で他の人も景色に気付けたり、SNSを通じて見られなかった光景が見られたりするのって案外悪くないなと思った。
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カメラ付き携帯電話を持ち歩くようになって、きっと「心の解像度」は上がっているんじゃないだろうか。
つまりは、気付く力や、見つめる時間が増えたように感じるのだ。
カメラがなかったら、「わぁすごい!」と今日の空を見て感じることはあっても、こんなに長い時間それを眺めたり、(良い写真を撮ろうと)真剣に向き合ったりしただろうか?
もちろん、そういう人もいると思うけれど、私はこんなにじっくり観察したり真剣に向き合ったりしていなかったと思う。
また、SNSの普及で、その「気付き」を捉える腕もあがったんじゃないだろうか。
私が撮影をする動機は、さっきも書いたように「残しておきたい・誰かに見せたい」というもの。(自分だけで完結しない)
「見てくれる(かもしれない)誰か」を想定して撮るから、力も入る。(だって“こんなに”綺麗だったって伝えたいもの)
自分がその情景を思い出すきっかけ用としてだったらメモ程度に撮ったって良いはず。
撮った写真をSNSをUPする動機は、こんな凄いの見た!という報告だったり、こんなに上手に撮れた!だったり、これを愛でる俺ってイケてるアピールだったりと「俗なキモチ(欲望)」なのかもしれない。
もしかしたら、平安時代の文や和歌に今も残る名作があるのだって、どこかの女官に「いと素敵!」と言われたくて、一生懸命アンテナを張って感性を磨いた男子たちの欲望への努力の結果かもしれない。
(誰の言葉か失念してしまったのだけれど、)
全ての行動の動機には「モテ(への欲望)」がある、とは本当かもしれない。
始めに生まれた「自分の中でのシンプルな感動」が、「外に向かう自意識」で磨かれているとすると面白い。
※と、思ったことを書きながら、「そんなことを思っているのは自分だけだったらどうしよう・・」と恥ずかしくなってきた。
いや、少なくても平安時代の男子たちは仲間のはず!と信じたい。
動機はなんであれ、心の解像度が上がることで、美しいものや嬉しいこと、愉しいことが人生に増えるのはすごく幸せなことなんじゃないか。
よしとしようじゃないか、と思って終わることにする。
しばらくたった空。(お遣い帰りに撮影)
沈むところはさっきよりもっと赤くなり、こちらは夜が始まっていた。

コンテンツディレクション、文筆。工芸、古典芸能など暮らしや日本文化に関することを中心に、講座やイベントの企画・ディレクション、取材・執筆をしています。和樂web(小学館)、サントリー、中川政七商店、NewsPicks NewSchoolなどでお仕事中。夜の散歩、のんびり美術鑑賞、お茶の時間、動物が好き。